グローバル教師と地球の子ども達

30カ国以上の子ども達を、アジアとヨーロッパのインターナショナルスクールで教えた教師が考える。これからの時代の教育とは?教師とは?子育てとは?

どう育てる?グローバル人材

NHKクローズアップ現代のトピックより。

www.nhk.or.jp

全体を通して感じたのは、結局本気で何がグローバル社会で通用するものなのかわかっている人はごく一部で、それは残念ながら国全体の教育を牽引する立場にはいないんだなということです。
 
スーパーグローバルというネーミングの違和感について語り出したらキリがなさそうなので止めますが、もっとハッキリと大学側を煽っていいのではと思います。
例えばスーパーグローバル指定大学タイプA。世界大学ランキング100に入るべく努力を要される13大学は、グローバル云々などと言っている場合ではなく、要は「学生の学力、研究内容の国際的競争力、教授陣の質の向上」を早急にしなければならないということです。
そしてタイプB。24もの大学が「日本の大学のグローバル化を牽引するプログラム」というなんとも曖昧極まりない目標を持って運営することが求められているそう。単純に留学生を増やすとか、英語での授業を増やすとか、そういうことに予算を割くことしか、とりあえずはありません。でもこれで終わるのであれば、グローバル化ではなく、「国際化」だと思うんですけどね。それにそんなに留学生を増やして、その後彼らはどうなるのでしょう。日本で仕事を得ることができるのでしょうか。
 
なんともすっきりしない気持ちで番組をみていくと、後半で群馬県にある大学の、実にグローバルな取り組みが取り上げられました。
大学自体の存在意義を根底から考え直し、地元に提供する優れた人材を育成することに徹底的に特化。その延長として、特定の分野での留学をさせ、より高い技術を学生に持ち帰らせる。また、その提携の一環として大学では独自の開発を進め海外の大学と共同研究を行う。
グローバルという言葉のもつ「地球規模の」「包括的な」という意味において、私としてはもっともぴったりくる取り組みでした。特に、技術提携やリソースの共有を国境を越えて行うという点で、これからのニーズをしっかりと見据え双方向で取り組みを広げる、まさにグローバル化を牽引している大学なのではと思いました。こういう取り組みを実らせている大学に、後付けでもいい、なんとか国が補助をしていく手はないのだろうかと考えさせられました。
 
国が違えど、言葉の壁があれど、世の中で必要とされる絶対的な力を持っていれば必ずグローバル人材として認められます。英語でディベートができるという程度の技術は、単なるツールに過ぎません。まずは、世界のニーズを知ること。次にそれに必要となる能力を見極めること。そういったマーケティングをいかに大学が行っているかが鍵となるのではないでしょうか。
 
本来、大学をグローバル化するということは、それだけ競合大学が増えるということです。大学は選ばれる側になるのです。今、日本で東大に合格して入学を辞退する学生は、2%ほどしかいません。ライバルのない状態というのは、脆弱な成長力を露呈しているともいえるでしょう。
MOOCS(オンライン大学授業)では日本の大学の存在は見えてきません。各国の有名大学が名を連ね、無料で授業を開講しているにはやはり、宣伝の意味もあるのではと思いますが、何より授業が面白い。こんな授業が受けられるのなら是非この大学に通いたいと思わせるような素晴らしい授業が溢れているのに、その中に日本の大学はありません。優秀な学生がどんどん流出していく事態はすぐそこに見えています。その危機感がある大学が日本にどれだけあるのか、疑問です。
 

お年頃との付き合いかた

日本では小学校6年生に当たる学年が、第二次性徴についての学習単元に取り組んでいます。
単純に保健体育的な知識を習ったり、理科的に動植物の繁殖や受精の仕組みなどの学習もしますが、これは「自分自身の変化にどう向き合うのか」ということが根底のテーマです。
例えば、文学を通して。「The Giver 記憶を伝える者」を読む。社会のルールや慣例などに疑問を持ち始めるこの年齢にぴったりの本です。そこから、自分たちが変わっていくことはどう社会的に意味を持っていくのか、などを考えていきます。
単元の初めに、第二次性徴についてのブレインストームが行われ、知っていること、知りたいこと、わからないこと、などを書き出しました。そこでは単純に体の変化への疑問や好奇心、また「どうして生まれつきそうではなく、途中から性差が開いていくのか」「感情的になりやすくなるのはなぜか」という掘り下げた疑問も多く見られました。中には不安を漏らす子もいて、「どうして子どものままじゃいられないのかなあ」という書き込みもありました。

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アメリカ人のAちゃん。最近ちょっとだるい。体が前のようにしなやかに動かなくなった。バカ話に騒ぐ男の子達の、ちょっと無神経な発言にいちいち腹が立つ。先生の言うこともなんか違うなあと感じることも増えた。仲良しの子も時々テンション高すぎて、ほっといてほしい時もある。
Aちゃんは、それまで、それほど精神的に大人びているわけでもありませんでした。でも体の成長がちょっと早かったのです。まだまだ子どもの心を抱えながら、ホルモンが感情を左右するようになる。そのギャップに一番戸惑っているのは本人でしょう。
 
自由な設定で物語を書く時間に、Aちゃんから質問がありました。「自殺っていう言葉を使ってみたいんだけど」。そこだけ聞くとドキリとするけれど、よく聞けば、主人公の女の子は幼い頃に母が自殺してしまったという秘密と苦悩を抱えていることにしたい、ということらしい。普段(これは多くのインターナショナルスクールでそうだと思う)、学校内では”暴力的な言葉”、”相手に不快感を与える言葉”というものの使用を、文章に書くことも口頭で使用することも厳しく禁じています。「殺す」「死ね」などだけでなく、ピストルを工作で作って銃撃戦ごっこや、誰かを縛るなどの行為もダメです。よって、「自殺」という言葉を果たして文章内で使っていいものか、Aちゃんも判断に迷ったのでしょう。
「それは、主人公の心の闇を表すのに、重要な要素になるのかな?」ときいてみます。すると「うん、だって自殺って人に言えないじゃん?でもすごい大きな悩みで、で、旅に出て、それをちゃんと話せる友達ができるっていうのがエンディングなの」と。
Aちゃんは今、心と体のギャップを埋めていこうともがいている最中なのかもしれません。極端な表現を使うのは、まだ繊細な感情を表す語彙が豊富でないからだろうと判断し、「それならいいんじゃない、書いてごらんよ。ただ、自殺に注力するのは、話の筋とは違うよね」と答えました。いつもはだらっとして窓の外を見ていることが多い彼女は、すぐに猛然とノートに鉛筆を走らせ始めました。感情エネルギーの発散、そんな言葉がぴったりくるような姿でした。
 
 
子どもとして誰かに守ってもらいたい一方、何かに突き動かされるように感情を爆発させる。大人のように扱ってほしいけど、突き離されたら生きてはいけない。「ほっといて!」と言うくせに「宿題わかんない手伝って」と来る。思春期の手前は非常に厄介で、ともするとただ理不尽なワガママを言っているように見えるでしょう。まるで小さな頃に戻ったようで、なのに可愛げはないという(笑)。
しかし、子どもなりの心の葛藤を、ただのワガママに終わらせてしまうかどうかは、周りの大人次第です。理不尽なものは理不尽であるときちんと説明をすること。子どもの感情に振り回されることなく、その感情の発散の正しい方向を共に見つけてあげること。そしてそっと離れて見守ること。
 
近年では、全体的に体に変化が始まる年齢が少し早まってきているように感じます。一方、精神的な成長はというと、その流れとは言い難いです。つまり、心と体のギャップを抱える子どもが増えているのではないかと思うのです。歯の生え変わりと第二次性徴の関係も研究されていますが、生え変わりが半分まできたら、お年頃に向き合う準備を始めてもいいかもしれません。
 

算数は数字だけではない

国際バカロレアにおいて、初めに日本人やアジア人が戸惑うのは、算数の学習の仕方といってもいいでしょう。

 
例えば計算の仕方。なるべくたくさんの違った解答が求められます。
2年生レベルだと、12+27+41 の答えを出す時には
1)10+20+40=70 2+7+1=10 70+10=80
2)10+30+40=80 80+2ー3+1=70
3)10+29+41=10+30+40=80
などと、どんどん考えた上、口頭で説明をします。この数字はどこでどう変換したのか、なぜそうしたのか。どの方法が効率的か、それはなぜか。時にディスカッションを交えて、ではその方法は他の例にも応用できるのか、などと進めていきます。
 

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聞いているだけでまどろっこしく、「その分計算問題をたくさんやったほうがいいのでは」と思うかもしれません。確かに低学年のうちはそういう部分もあると思います。九九は覚えてしまった方が絶対に速い。それはそうです。
しかし、学校の授業というのは訓練ではない、というのが国際バカロレアです。九九を覚えたければ覚えればいい。算数ドリルをやって計算のスピードを上げたければ、やればいい。でもそれはあくまで、個人の自主学習の範囲なのです。学校では思考の範囲を広げ、周囲と知識の刺激をしあい、他の学習と関連付けて学ぶことが求められます。
 
「なんだか簡単な計算問題をやっているような気がしますが」という問い合わせを保護者から受けることがあります。その時に私がよく使う言葉は、「算数は数字だけではありません」です。
IT化が進んで、計算機で計算をすることが当たり前になってきています。難しそうな掛け算や割り算も、打ち込むことさえできれば答えは瞬時に出ます。
でもなぜ算数を学ぶのか。
それは、論理的思考力を養うためなのです。数学的思考力は、論理的思考力を支える要素の1つです。
 
数学(算数)で解析、確率などを学ぶことは、のちの問題解決能力を支えるということは比較的わかりやすいですが、小学生レベルとなるとイメージしにくいかもしれません。
しかし、例えば前出の計算問題などはアルゴリズム(算法)の訓練で、「できるだけ短い手順で、正確な解に到達する」という思考法につながります。様々な解法を考えるのは、問題をどういうステップや要素に分けるのかという実践になるでしょう。明晰な問題解決の筋道を立てる練習は、論理的な思考力の根幹となることは言うまでもありません。
 
ピタゴラスニュートンも哲学者。そう考えると、小学校の算数は哲学の入り口でもあるのです。