グローバル教師と地球の子ども達

30カ国以上の子ども達を、アジアとヨーロッパのインターナショナルスクールで教えた教師が考える。これからの時代の教育とは?教師とは?子育てとは?

それもまたグローバル

カナダから来たRちゃんは、いつもシャツに短パン。髪型もおしゃれなショートカット。大好きなスーパーヒーローのキャップを斜めに被り、毎日颯爽とサッカーをしています。明るくて誰にでも分け隔てなく接するので、みんなから慕われています。パスポート上は女の子です。
 
イギリスから来たEちゃんは、最近お年頃に突入し始めた周囲の女の子といることに、どことなく違和感を覚え始めました。女の子たちがアイドルの話や独特の女子トークを始めると、すーっとその輪から離れ、サッカー選手のカード交換をしている男子の中に入っていきます。親友のKくんと肩をくんで歩く姿がとても自然で、だからお年頃初期の女の子たちも特に何も言いません。
 
日本からのTくんはおままごとが大好きで、いつも配役はしっかり者のお母さん。一度見に行った美女と野獣でミュージカルの虜になり、いつかベル役で舞台に上がるのが夢。歌も上手でクラスのみんなから一目置かれる存在。サッカーの得意なHくんのことがお気に入り。
 
 
先日の統計調査で、日本人20代から50代のうち、13人に1人がLGBTであることがわかりました。クラスルームで2人はそうだということになりますね。
まだまだ差別が強くあり、多くの人が悩みを抱えているという状況は本当に残念です。そういう話を聞くたびに、いつも考えるのは、どの段階でその差別感が生まれてくるのだろうかということです。なぜなら、少なくとも子どもの段階では、違いに気づいても差別に至らないからです。あの子はサッカーが好きだ、あの子は短い髪が好き、あの子は髪を結ぶのが好き、単に好みの違いとしかとりません。
それをいつの間にか、「女の子なのにズボンをはいている」「男の子のくせにピンクが好き」「女の子なのに女の子が好き」と否定的に見るようになるのはなぜなのでしょう。
 
大人のせいなのです。
大人の価値観を子どもに伝え続けて、世の常識が出来上がっていくからなのです。
 
常識を否定するわけではありません。世のモラルや円滑な人間関係は、法律化することのできない常識という感覚的なものがベースになっているからです。
国が違うと、この常識の出来上がり方が違うので、いわゆるカルチャーショックのようなことがあるのです。電車で飲食?!授業中にメール?!机に座る!?なんていうのは、蓄積された常識があるからこそ驚くわけです。
ですからグローバル化が進めば、当然そういう常識というのはひっくり返ることになります。常識、なんていう概念自体危ういものになるかもしれません。「それは常識ではなく、あなた自身の考えでしょ。私は違う」という流れになるでしょう。その時に、これは後世にも伝えたい価値観だ、というものはどんなものでしょう。
 
私はこれまで幾つかのインターナショナルスクールで働いていますが、どこでも同性カップルの先生や、体と心の性別が違う先生、性別にこだわらない先生がいます。肌の色の違いや言葉の違い、宗教の違いと同じように、人はみんな違うということを、特に言及することもなく、自然に子どもたちに見せる。ここに流れる価値観が子どもに伝え続けられていけば、いずれ世界の常識が新たに蓄積されていき、もっと誰もが暮らしやすい世の中になるのではないか。そう考えている先生、学校が多いです。
 
グローバルが超えるのは国境だけではありません。多様性も認めるということです。外からやってくる違いに適応することも大切ですが、身近に存在する違いを私たちは今どこまで認めているでしょうか。