グローバル教師と地球の子ども達

30カ国以上の子ども達を、アジアとヨーロッパのインターナショナルスクールで教えた教師が考える。これからの時代の教育とは?教師とは?子育てとは?

休み時間の過ごし方

アメリカ人のSちゃんは本の虫。分厚い本をいつも側に置いています。授業中も机上には読みかけの本があって、やることが終わるとささっと読み始めます。ランチタイムは片手に本、片手にフォーク。休み時間には、庭の片隅で座り込んで読んでいます。
「休み時間はいつも1人で本を読んでいるのかな?」と声をかけると、「うん。だって、本を読んでる時が一番リラックスするんだよね」と答えました。なるほど、そんなに好きなんだ。本の中に体が入ってしまうんじゃないかというくらいのめり込んでいる様子を見ると、どこか羨ましくも思えました。
 
新しく来たばかりの日本人のTくんは、休み時間になると図書室に駆け込んで行きます。「見たことのない本がいっぱいあるから、すごく面白い!」
休み時間に友達と会話力を磨いてくれるといいと思うところもあるけれど、読む力をしっかりつけられそうで、それも楽しみだわ、と担任が話してくれました。
 
イギリス人のMくんは、目下音楽のミキシングに夢中。休み時間はランチとコンピューターを抱えてITスタッフのところへ行きます。かっこいいヘッドホンもつけて、気分は完璧にDJ。クラブミュージックに詳しいスタッフに、いろいろなサウンドを紹介してもらっています。
 
休み時間は、授業と授業の合間に頭を切り替えるための数十分であるということを考えると、子どもそれぞれに過ごし方が違ってもいいのではと思います。
しかしながら、私自身、日本の学校で教えていた若い頃には、「休み時間はお友達と仲良く遊びましょう」みたいな考え方を持っていました。みんなが一緒になって仲良く遊んでいることが、理想というか。
もちろん、社会生活において協調性というのは大切な資質ですし、学校生活はそれを養う場の1つであるとは思います。でも、だからといって、学校ではいつもいつも集団で行動しなくてはいけないのか。最終的に学びというのはその子ども自身のものであるとすると、社会の中で個の時間をどう過ごすかということも、同時に体験していく場であってもいいのではないか。そういう風に最近は考えます。
 
 
日本人のDくんのお母さんから相談を受けました。
「用事があって学校に行ったんです。休み時間の様子を見ていたら、うちの子、なんだかにやにやしながら1人でうろうろ歩いているだけなんですよ。見ていて歯がゆくて。もっとお友達をうちに呼んだりして仲良く遊べるようにしたほうがいいでしょうか?」
私の答えは、
「休み時間には友達と遊ばなくてはいけない、という決まりはどこにもありませんよ。1人で過ごす時だってあっていいじゃないですか。」
「そしてもし彼が、本当に友達と遊びたいと思ったら、どうやって輪に入っていくのか、もしくは輪を作っていくのかを彼自身が考えなければいけないですよね。その1つとして、お友達を家に呼びたいと彼が言うかもしれませんが、それまで見守ってあげたらどうでしょうか。」
でした。
 
1人でいることを、孤独ととるか、自由ととるか。そのときの様子や状況に応じて考えられる柔軟性を持っていたいです。

それもまたグローバル

カナダから来たRちゃんは、いつもシャツに短パン。髪型もおしゃれなショートカット。大好きなスーパーヒーローのキャップを斜めに被り、毎日颯爽とサッカーをしています。明るくて誰にでも分け隔てなく接するので、みんなから慕われています。パスポート上は女の子です。
 
イギリスから来たEちゃんは、最近お年頃に突入し始めた周囲の女の子といることに、どことなく違和感を覚え始めました。女の子たちがアイドルの話や独特の女子トークを始めると、すーっとその輪から離れ、サッカー選手のカード交換をしている男子の中に入っていきます。親友のKくんと肩をくんで歩く姿がとても自然で、だからお年頃初期の女の子たちも特に何も言いません。
 
日本からのTくんはおままごとが大好きで、いつも配役はしっかり者のお母さん。一度見に行った美女と野獣でミュージカルの虜になり、いつかベル役で舞台に上がるのが夢。歌も上手でクラスのみんなから一目置かれる存在。サッカーの得意なHくんのことがお気に入り。
 
 
先日の統計調査で、日本人20代から50代のうち、13人に1人がLGBTであることがわかりました。クラスルームで2人はそうだということになりますね。
まだまだ差別が強くあり、多くの人が悩みを抱えているという状況は本当に残念です。そういう話を聞くたびに、いつも考えるのは、どの段階でその差別感が生まれてくるのだろうかということです。なぜなら、少なくとも子どもの段階では、違いに気づいても差別に至らないからです。あの子はサッカーが好きだ、あの子は短い髪が好き、あの子は髪を結ぶのが好き、単に好みの違いとしかとりません。
それをいつの間にか、「女の子なのにズボンをはいている」「男の子のくせにピンクが好き」「女の子なのに女の子が好き」と否定的に見るようになるのはなぜなのでしょう。
 
大人のせいなのです。
大人の価値観を子どもに伝え続けて、世の常識が出来上がっていくからなのです。
 
常識を否定するわけではありません。世のモラルや円滑な人間関係は、法律化することのできない常識という感覚的なものがベースになっているからです。
国が違うと、この常識の出来上がり方が違うので、いわゆるカルチャーショックのようなことがあるのです。電車で飲食?!授業中にメール?!机に座る!?なんていうのは、蓄積された常識があるからこそ驚くわけです。
ですからグローバル化が進めば、当然そういう常識というのはひっくり返ることになります。常識、なんていう概念自体危ういものになるかもしれません。「それは常識ではなく、あなた自身の考えでしょ。私は違う」という流れになるでしょう。その時に、これは後世にも伝えたい価値観だ、というものはどんなものでしょう。
 
私はこれまで幾つかのインターナショナルスクールで働いていますが、どこでも同性カップルの先生や、体と心の性別が違う先生、性別にこだわらない先生がいます。肌の色の違いや言葉の違い、宗教の違いと同じように、人はみんな違うということを、特に言及することもなく、自然に子どもたちに見せる。ここに流れる価値観が子どもに伝え続けられていけば、いずれ世界の常識が新たに蓄積されていき、もっと誰もが暮らしやすい世の中になるのではないか。そう考えている先生、学校が多いです。
 
グローバルが超えるのは国境だけではありません。多様性も認めるということです。外からやってくる違いに適応することも大切ですが、身近に存在する違いを私たちは今どこまで認めているでしょうか。

スピーチとは プレゼンとは

4月29日、安倍首相は日本の総理大臣としては初めて、米国上下両院の合同会議でスピーチを行った。45分間の英語スピーチ、後に詳細な指示を書き込んだ手元の原稿を写した記事が米紙に報じられたが、それを見ても相当に研究と練習を重ねて当日に臨んだことがよくわかる。
45分は通常の小学校の授業の長さなので、その間話し続け、人々の集中力をキープさせることだけでも骨の折れることで、また、相当な準備が必要であると言う事は私にはとてもよくわかる。加えて、その中に国家としての重要な事項を盛り込まなければならないとなると、当たり前だが工夫もかなりのものであると考えられる。
 
やれ発音が悪い、棒読みだ、中には「高校生のスピーチの方がマシ」と揶揄する議員もいたらしいが、あなた方はスピーチと言うものをはき違えていませんか?と問いたい。
「顔を上げる」などの書き込みを嗤う人もいるが、逆に、なるほど、プレゼンというものはここまで計算されたものであるべきなのだと学んで欲しい。
 
昨今、やれスピーチ力だプレゼン力だと言われて、教育の場にも積極的に取り入れる姿勢が見られる。特に英語でのそれは最強武器のように扱われる。しかし、残念なことに、実に表面的な部分しか評価がされていない。
私の知り合いで、TEDトークでスピーチや米TV局などでインタビューに答えたりなどよくされる方がいるが、その方へのフィードバックに「英語うまいですねー」などと羅列されていると、少々がっかりする。彼は確かに英語がうまいけれども、それ以上に、素晴らしい内容の事業を相手にしっかりと伝わるように言葉や表現に工夫をしていること、だからこそ海外でも高い評価を得ていること、そこが「これぞグローバル」と我々が学ぶ点なのではと思うのだ。
 
スピーチは、芸能とは違う。立て板に水、でカッコよく話せればいいわけではない。中身、内容が問題なのだ。その中身を使って、演出を交えながら相手を説得するのがプレゼン。今回の首相のスピーチにも、身振り、手振り、間の取り方、声のトーン、視線の配り方、様々な演出が盛り込まれていた。くれぐれも間違えないで欲しいのが、これは彼が英語スピーチに慣れていないから周りが必死に助けた、のではないということだ。オバマ大統領にもライターや演出家がいる。原稿読み上げ型、紋切り型のスピーチがまかり通るのは日本の政治家くらいのものだ。
 
話す側にこれだけの工夫をさせるには、聞く側の質の向上も条件となる。ただ結果を聞き流すのではなく、そこに何が述べられているのかを判断する力が、プレゼン力と相乗的に必要になる。表面的なスピーチは人を動かさないし、いいプレゼンは踏み込んだ深い議論に発展する。
スピーチがプレゼンがと言う前に、我々はきちんと聞く力を持っているだろうか?
 
ネガティヴポイントを列挙するのは、最も簡単な評価方法だ。今後日本の首相が英語でスピーチすることが当たり前となるのか、であれば今回我々は何を教訓にすればいいのか。揚げ足を取る暇があったら考えたい。