グローバル教師と地球の子ども達

30カ国以上の子ども達を、アジアとヨーロッパのインターナショナルスクールで教えた教師が考える。これからの時代の教育とは?教師とは?子育てとは?

プロ意識は自分でつけていく

いつの間にか経験年数も重ね、いつの間にか管理職という地位について、若い教員たちと話をするにつけギャップを感じたり、「ったく最近の若いのは」的な意見を口走りそうになるのは世界共通のこと。
 
木曜日のハッピーアワーで飲み過ぎて金曜の朝に遅刻したり、うっかり生徒と友達言葉で話してしまったり、服装がカジュアルすぎたり。
私も若い頃は、夜遊びの寝不足状態で出勤したことも、面倒なのでTシャツ短パンビーサンで出勤したこともあるが、日本の学校社会はとにかく細かく上からの指導が入るので、ほぼ1年もすればそういう目立った「若さゆえ」の部分は削ぎ落とされ、地味で真面目な教員ができあがる。短すぎるショートパンツを履いて怒られ、茶髪にして指導を入れられ、真っ赤なペディキュアのままプール指導をして先輩に睨まれ、遅刻予防に朝の当番を怖い先輩と組まされ・・・・ああ懐かしや若き日々。私はそれでも一向に言うことを聞かずに、うまーく先輩や上の先生たちと仲良くやってその場を切り抜け、そのうち外に出てしまったので、全くもって悪い見本のままだけど。
服装や外見のことだけではなく、教員としての意識も、日本では教え込まれる。同僚に対しても必ず「〜先生」と呼ぶこと。生徒に対しての呼び方、歩く姿勢、挨拶の仕方、ラジオ体操の見本のやり方・・・・細かく細かく指導される。教師なのだから、先生なのだからこうしましょう、と毎度言われ続ける。
当時はなんてめんどくさいんだとうんざりしていたが、実はとても楽なシステムだったということに後から気づく。ただ言うことを聞いていればいい。自分で考える手間もなく、ゆえにそこに自分の責任も生じない。そうやって型にはめられているうちに統一したシステムに組み込まれていく、それが最終的には統一化された教員の質につながっていくのならば、ある意味成功した系統と言えるのかもしれない。
 
その系統が全く存在しない外国では、ましてやいろいろなシステムから教員がやってきているインターナショナルスクールでは、もちろんそんな細かい教員指導は行わない。お金もらっているプロでしょ、自分で考えなさいよ、という放置スタンス。
けれど、それが学校教育の場にふさわしくない行動行為であるならば、通達以前にバッサリと切られてしまう。自由なようでとても厳しい。教員は基本契約年俸制なので、一度そんな理由でバッサリ切られたら、次の仕事は取れなくなる。というか、切られないようになどという低レベルの話ではなく、よりよい条件の契約を取っていくためにどうすべきなのかということは常に頭の隅に置いておかなければならない。
だから自分から先輩に聞きに行く。先輩のアイディアを盗む。情報網を張り巡らせて、今何を学んでおいたほうがいいのかアップデートし続ける。口を開けて待っていても、周りに置いていかれるだけ。
 
さて、若手教員に「保護者面談ではどんな服装がいいのかな」と聞かれた私。「そうねえ、初めてデートにいく時くらいの服装がいいんじゃない?」と答えておきました。
 
 
 
 

世界で最も長く働く日本の先生

本の学校の先生は世界で最も長く働くそうです。1週間に平均53.9時間、1日10時間以上の勤務時間という計算です。平均で、ですよ。
それなのに、授業の準備時間は他の国と大差がありません。つまり、授業準備とは関係無いことに多くの時間を費やしているのです。
 
例えば部活動。課外活動があるのは他の国でも同じです。しかしながら、あくまで余暇を楽しく過ごすためのもの。週1回1時間は担当する義務があったりしますが、主に教員が自分の好きなことを課外活動にします。だから生徒の参加は個人の選択によるし、何部に所属していたか、なんて成績表に書かれることもなく、そんなに重要視されることもありません。本当にがっつりやりたければ、個人でチームに所属してくださいな、と。日本の中学の部活のように、毎日のように放課後に練習があっておまけに週末は試合で費やされる、なんてことになったら、「子どものリラックスタイムを奪うのか」「家族と過ごす時間をどうしてくれる」と、それこそ大問題になります。
 
また、やれ給食費を集めるだの、地域のお祭り企画に参加するだの、そういう直接授業に関係無いことは、教員は一切やりません。なぜなら責任が取りきれないからです。お金の管理は事務の会計がまとめてやるもの、地域活動は広報が担当するもの、資格も専門のスキルもない教員がそういうものを担当するのは責任追求をされたときにおおごとになってしまいます。「それは我々の仕事ではありません」というセリフを言って、なんだか無責任な人だと思われるのは日本だけ。本来は責任の所在を明確にしている、むしろ責任ある発言なのです。
 
まあそういったわけで、授業時間にそれほど時間を割いているわけでもないのにやたら忙しそう、それが日本の先生の現状です。
 
 
私がこの記事を読み、最も「問題だなあ」と感じたのは、校外での研修に参加する先生がとても少ない、ということです。
私自身、日本で教員をしていた時には、恥ずかしながら校外での研修に参加などしていませんでした。学校を出るのはいつも夜8時ごろで単純に参加できる時間ではなかったし、そもそも校外で研修や勉強会を定期的に行っている団体の情報も1つ2つしかありませんでした。
でも海外で教えるようになって、実に研修や勉強会の多いことに驚きました。そしてみんなどしどし参加するのです。オンラインでも盛んです。学校から費用が出る場合もありますが、そうでなくても、みんなあれこれ情報を集めてせっせと学びます。日本より1日3時間時間学校で働く時間が短いけれど、その分、研修に参加したり、新しいメソッドの本を読み研究したり、勉強会に出たりしています。
 
なぜそんなに研修や勉強をするのか。
それはもちろん、子ども達によりよい教育を施すため、ではあるのですが、直接には自身のキャリアに響いてくるからです。日本のように一度採用試験さえ通ればあとはそのまま給料が増え続ける、というシステムではありません。公立の先生でも自分で学校を変わったり、校内で新たなポジションにチャレンジしていかなければ、給料は上がっていきません。そのチャレンジのためには、どういう研修をしてどういうスキルを身につけてどうその学校に貢献できるのか、アピールをしていかなければならないのです。だからみんな必死で自分のキャリアに箔をつけていきます。
また、校外で研修を受けると、いいネットワーク作りになることも確かです。他の学校の情報を得たり、また他の勉強会の情報を得たり。コネクションが大切なのはどこの世界でも同じですよね。そして、同業他社(笑)の仲間と話をすることで、悩みを分かち合うことができることも確かです。特に若い教員たちが行き詰まってしまうことも少なくなるのではないかと思います。
 
 
さて、それではどうしたらいいのか。
改善する余地はたくさんありすぎて非常に難しいのですが。。。一番初めにできることは、意識改革なんじゃないかと思うのです。教員たちが「まずい、もちょっと勉強しないと」とそれぞれ思い始めたら、そのための時間捻出をしようとして、もっと仕事を効率化しようという動きが出てくるはず。動きが大きくなれば世の中は変わっていくのです。でも小さな動きさえもない状態では、「忙しすぎる」と文句を言って誰かがどうにかしてくれるのを待っているだけでは、どうやったって何も変わらない。
世界で最も勉強しない教員たちから、トップレベルの生徒が生まれてくるはずはない。その危機感をもっと現場の人間が感じるべきだと思うのですが。

もっとフィードバックを

国際バカロレアPYPは、定まった教科書もなく、「テストで何点だったから評価はいくつ」というわかりやすい評定もありません。そのため、年3回(学校によっては2回)のレポートには、主にどのような点が伸びたのか、今後どのような点を伸ばすことが期待されるか、ということがびっしりと文章で書かれます。

 
テストの点数ばかりで評価しないとはいえ、評価が存在しないわけではありません。各単元にはもちろん、子ども達がどのようなことを理解するのか、どういう部分が伸びるのか、ということが細かく規定されています。
単元途中にも何度もある学習発表やレポートなどを総合的に見ていくのですが、その場で点数が出てこない分、自分の学びのどういった部分をもっと伸ばしたらいいかを子ども自身が理解するために、必要になってくるのがフィードバックです。
家庭でも、子どもが絵を描いたり文章を書いたりして持ってきた時、スポーツや習い事の時など、日常でフィードバックをする機会があるのではないかと思います。
 
このフィードバック、なかなか簡単なものではありません。というのも、つい、「ここをもっとこうしたらいいんじゃない?」というアドバイスになってしまうことが多いのです。アドバイスはもちろん大切なことなのですが、そればかりになると、知らず知らずに子どものやる気を奪いかねません。
さらに、いつもアドバイスばかりされ続けていると、「言われたことだけやる」「言われたことしかできない」というような受け身の学びになる可能性もあります。また、ただ「いいね!」だけで終わってしまったり、以前にも書きましたが「よくやったね」と褒めるのみだったりというのも、より伸ばすためのフィードバックとは言えません。
では、どうしたらいいのでしょうか。

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要約すると、フィードバックとは
-ゴール、目標に近づけるものであること
-具体的でわかりやすいものであること
-何をしたらよいかわかるものであること
-年齢や能力に応じたものであること
-すぐに与えること
-結果からではなく途中で与えること
-一貫性を持たせること
となります。
 
例えば、子どもが文書を書いています。横で見ていると、漢字の間違えがある。字が汚い。内容が薄い。など、まず改善点が目に入ると思います。そこでいきなり、「もっとキレイに字書けないの?」「もっと詳しく書いて」などと言ってしまうと、やる気もなくなりますよね。
代わりに、途中で一旦止めて「これはよく書けてるなあって思えるように、何かできることはない?」と聞いてみましょう。ここで「えー、ない」という答えが返ってきたら、「じゃあ、字はどう?漢字は大丈夫?」と少し具体的に自己評価基準を与えます。「あれ、この字間違ってたや」「そうそう、よく見つけたね」などと目に見える改善点について触れながら、「この部分の表現は様子がよく浮かんでいいね」と伸ばしたいポイントを指していく。「じゃあこの後は、字の間違いに気をつけながら、こういう風に様子のわかる書き方をもっとしていこうか」と導く。。。
という訳です。
 
最近は、ネットの発達のおかげであちこちで色んな人が「評価」しています。レストランやお店の口コミから、日本では政治に関しても自由に批評できます。でも時に、ふとした発言を捕まえて出口が見えないほどの批評や評価を浴びせる、いわゆる「炎上」も多くなってきている気がします。
大切なことは、相手を叩くことではなく、相手をよい方向に導くこと。誰もがわかっているはずなのでしょうけれど。。。